Program note for '2 piano recital with Anthony Hewitt' April 2018

モーツァルト/グリーグ(1843-1907): ピアノ・ソナタ 第15番 ハ長調 Kv.545

 

「ペール・ギュント」で有名なノルウェーの作曲家、エドヴァルド・グリークがとても親しみのあるモーツアルトのハ長調のピアノソナタを2台のピアノのために編曲しました。カラフルでオリジナリティーに富んでいて、ファーストパートとセカンドパートの間には会話が飛び交い、室内楽らしい作品となっています。時代を超えて書かれたグリークの伴奏パートには、モーツアルトの生きていた時代から19世紀後半までのピアノの展開も見られます。幅広い音域、響きを大切にするペダル、力強い和音などがよく知られている原曲の上に重なり、大変興味深い作品に仕上がっています。

 

アントニン・ドヴォルザーク(1841-1904):スラヴ舞曲 作品72第2番「ドゥムカ」ホ短調    

                        作品46第8番「フリアント」ト短調     

 

チェコを代表する作曲家、ドヴォルザークは1841年にプラハの郊外で肉屋の長男として生まれました。音楽好きな子供でしたが小学校を中退させられ、肉屋を継ぐために故郷から30km離れた職業学校へ行くことになります。そこで出会った職業学校の校長先生は深い教養のある人でドヴォルザークにドイツ語だけではなく(当時肉屋の技術修得書を得るためにはドイツ語が必要だったそうです)オルガン、ヴィオラ、和声学までの基礎を教えます。13歳で肉屋の職業試験に受かり、両親の仕事を手伝わないといけない時が来ましたが、彼の才能を見出したレーマン校長先生、伯父、裕福な友人のサポートを得てプラハのオルガン学校へ入学することができるようになりました。

もう一つドヴォルザークの人生を変えた出来事があります。それはブラームスとの出会いです。8歳年上のブラームスはオーストリア国家奨学金を得るためにエントリーしたドヴォルザークの作品を高く評価し、ベルリンの出版社ジムロックに紹介します。1878年(36歳)にジムロックが依頼した「ハンガリー舞曲集」によって世に認められ、同様の舞曲集をジムロックが依頼したことによって「スラヴ舞曲集」第1集(作品46)が生まれます。そして8年後の1886年に作曲された第2集(作品72)の依頼の時は作曲料が10倍にもなったそうです。30代に続けて子供を3人もなくし想像を絶するような悲しい思いをしたドヴォルザークの音楽は、哀愁に満ちていて美しく、深く心に響くメロディーに癒されます。

ドヴォルザーク自身によって編曲されたオーケストラ版はよくアンコールなどで演奏されますが、オリジナルは連弾曲です。メランコリックに書かれている「ドゥムカ」はなんとも言えない憂いに満ちた素晴らしい音楽です。「フリアント」は熱狂的で短調と長調が入れ替わる主題が登場します。三拍子で書かれていますが、実際には<2+2+2+3+3>のフレーズが続きます。躍動感に満ちたリズムが続くこの曲は彼の故郷ボヘミアの素朴なダンスです。

 

アレクサンドル・ポルフィーリェヴィチ・ボロディン(1833-1887):  歌劇「イーゴリ公」より 「ダッタン人の踊り」

1833年にサンクトペテルブルクの大貴族の私生児として生まれたボロディンは幼い頃から周りから大切にされ、化学と音楽の才能を充分に伸ばし17歳の時にペテルブルク医科大学へ入学します。ボロディンは化学の分野で世界第一線で活躍し、化学者としての業績を積み上げます。代表的な業績の一つに現代の有機化学の教科書にも出てくる、「ボロディン反応の化学式」の発見などがあります。医科大学の教授として多忙な日々を送っていたボロディンはわずかな時間を作曲に充てていたため作品は少なく、ボロディン自身が自らを「日曜日の作曲家」と呼んでいたそうです。

24歳の時に医学会議に出席のためにヨーロッパへ出かけます。その時にムゾルグスキーに出会い、シューマンの曲を紹介され音楽に興味を抱きます。その数年後に医学留学先のハイデルベルグでロシアのピアニスト、エカテリーナ・プロトポポーヴァと出会います。彼女は結核治療のためサナトリウムに滞在しており、そこで開催された演奏会でボロディンと出会い恋に落ち、のちに結婚します。この時彼女が演奏したプログラムの一曲目はまだ没後5年目のシューマンの作品だったそうです。演奏後にシューマンの音楽について語り合い、二人は急速に親密になっていきます。この頃のボロディンは研究室で化学の実験に明け暮れていた時期ですからエカテリーナが彼に与えた音楽の影響は大きく、深かったと思います。

1863年、30歳でバラキレフと出会い正式に作曲を学びます。約5年かかって作曲された「交響楽第1番」はバラキエフによって初演され、この時期に最も重要な作品、歌劇「イーゴリ公」に取り掛かっています。ムゾルグスキー、リムスキー・コルサコフと共に「ロシア五人組」であったボロディンはわずか53歳で急死しています。1887年の2月、楽しい舞踏会の最中に心臓発作に襲われそのまま息を引き取りました。歌劇「イーゴリ公」は彼の友人である、リムスキー・コルサコフとグラズノフによって完成させられました。並外れた記憶力の持ち主のグラズノフはボロディンが何度かピアノで弾いた序曲を思い出し、彼が残した断片を使いながら作曲したそうです。日本語では「ダッタン(タタール)人の踊り」と訳されていますが原題は「ポロヴェツ人の踊り」。ポロヴェツ人とは11世紀にウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯に存在していたテュルク系遊牧民族のことです。

ここに登場する「だったん人の踊り」は「イーゴリ公」の2幕に現れる最も有名な曲で、ポロヴェツの陣営で敵将コンチャックが負傷して囚われたイーゴリ公の気晴らしのために催した踊りの場面からきています。躍動感にあふれる男達の踊り、勝利品として略奪された娘達の踊りが広いアジア、ロシアにかけての遊牧民族の風景を物語っています。甘美なメロディー、エキゾチックで力強いリズムにボロディンならではのオリジナリティを感じずにはいられません。

 

アントン・アレンスキー(1861-1906): 2台のピアノのための組曲 第1番 作品15

サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー修道院の入り口右側にチフヴィン墓地があります。そこにはロシアを代表する文化人たちが眠っていて、住んでいた頃はよくお散歩に行きました。「ロシア五人組」のムゾルグスキー、ボロディン、リムスキー・コルサコフ、バラキレフ、キュイ、その他にドストエフスキー、ストラヴィンスキー、アントン・ルービンシュタインなど偉大な文化人たちが一緒に眠っていて、そこに静かに立っていると不思議なひらめきが飛んできます。そして夏にはいつもお花が添えられてあるチャイコフスキーの立派な墓石の奥にある建物の壁に沿ってにアレンスキーが隠れるように眠っています。

1861年にロシアの古都、ノヴゴロドで生まれたアレンスキーはたった44歳でチフヴィン墓地に埋葬されました。ムゾルグスキーと同じく晩年はアルコール中毒、そして結核にかかってしまい死期が迫ってきたことを悟ったアレンスキーはまるで取り憑かれたように次々と作品を残しています。

アレンスキーは9歳の時に歌曲やピアノ曲を作曲し、その後リムスキー・コルサコフにペテルブルグ音楽院で作曲を学び、21歳で卒業した後はモスクワ音楽院の教授になりラフマニノフやスクリャービンを教えています。彼の音楽はチャイコフスキーの影響が強く、情緒性あふれる旋律やハーモニーには重いロシア的な響きはあまりないように思います。

この組曲は3曲で成り立っていて一曲目の「ロマンス」はロシアの民謡のようなメランコリックな曲です。2曲目の「ワルツ」は私のお気に入りでフランス風で軽やかでとってもチャーミングな曲です。煌びやかなパッセージは踊りながらシャンデリアとシャンパングラスがキラキラと輝いているかようです。3曲目の「ポロネーズ」は2曲目とは対照的で英雄的な雰囲気を持った曲でショパンの影響がここでは伺えます。

 

フランシス・プーランク(1899-1963):ソナタ 4手のためのピアノソナタ

「ロシア5人組」に続いて「フランス6人組」は20世紀前半にフランスで活躍した作曲家グループです。その中にプーランクとミヨーがいました。プーランクは敬虔なカトリック教徒である父と優れた母の間に1899年、パリで生まれました。両親は熱心な音楽愛好家で、いつも生活の中に芸術が溢れる裕福な家族に育ちました。5歳から母の影響でピアノを弾き始め、15歳の時にドビュッシーやラヴェルの初演を数多く手がけたリカルド・ヴィニェスに師事します。ビニェスからは微妙なペダリングなど、ピアノに関する多くの知識と影響を受けました。16歳の時に父が他界、その2年後に母が亡くなり、プーランクにとってヴィニェスは指導者以上のメンター(恩師)だったに違いありません。

この4手のソナタは19歳、プーランクがフランス陸軍の物資輸送部隊の運搬担当兵士として勤務していた頃に書かれています。彼は召集中も作曲を続け、1年後の1919年にこのソナタはロンドンのチェスター社から出版されています。3楽章から成るこの短いソナタはウィットに富んでいて面白い作品です。第1楽章「プレリュード」は和音連打が続くリズミックなパッセージと情緒的なパッセージが交錯します。第2楽章「リュスティック」はシンプルな美しいメロディーが続きます。第3楽章「フィナール」は私のお気に入りでアイロニーと冗談たっぷりな面白い曲で、第1、2楽章のテーマが飛び交じって踊ります。1楽章ではアンソニーと私が考えた(プーランクは書いていない)演出で演奏します。

 

ダリウス・ミヨー(1892-1974): 「スカラムーシュ」

プーランクの親友、ダリウス・ミヨーも20世紀初頭の「フランス6人組」の一人です。プーランクの「4手のためのソナタ」の第3楽章をミヨーは気に入ってオーケストレーションしています。

フランス大使の秘書としてブラジルに滞在したことがあり、そこで得た独特な民族音楽からたくさんのインスピレーションを受けています。「スカラムーシュ」という言葉は、コメディア・デラルテと呼ばれる伝統的なイタリア喜劇に登場する、臆病なくせに空威張りをする道化師のことです。

第1曲「ヴィフ」はサンバ風リズムが続く元気で活発な曲です。半音進行と付点リズム、主旋律が目まぐるしく交互に行き来します。第2曲「モデレ」は静かで美しい楽章です。第1ピアノのシンプルな単音のメロディーと第2ピアノが同じ付点ですが和音で返す会話が広がります。第3曲「ブラジルの女」は冒頭に「サンバのリズムで」とあるように、いきなり両ピアノによる激しいサンバで始まります。陽気で気まぐれな女性たちが踊り狂っている楽しい曲です。