Program Note 'Fantasy&Carnaval'

W.A.モーツァルト(1756-1791):幻想曲 作品397 ニ短調

ダニエル・バレンボイムがモーツァルトについて興味深い発言をしています。「作曲家には4つの種類の人々がいます。面白くない作曲家、面白い作曲家、偉大な作曲家、そしてモーツァルト。モーツァルトは誰にも比すことができません。全ての音が当たり前のようにそこにある。いつ演奏しても全てのフレーズがその瞬間に生まれたかのように響く。自分のいるべき場所へと常に戻してくれる存在です。」

モーツァルトの音楽は完璧にカットされたダイアモンドのようです。彼が書くスコアには無駄な音が存在しません。それ以前に音符の数そのものが非常に少ないのです。その中で繰り広げられる星の数ほどある戯曲に常に驚かされ、この世のものとは思えないほどの美しい音楽に深い感動を覚えます。

モーツァルトが残したほとんどの音楽が長調で書かれている中、この幻想曲は短調で書かれています。そしてこのニ短調という調は「死」に関係した特別な調だと思います。ニ短調で書かれたオペラのドン・ジョヴァンニでは、地獄へと向かうドン・ジョヴァンニの運命を暗示しています。また未完成のレクイエムもニ短調で書かれており、死に直行するモーツァルトがそこにいます。

このニ短調の幻想曲は謎が多い作品です。自筆譜が存在しないので正確なことは何もわかりませんが1782年に作曲されたと言われています。初版はモーツァルトの死後の1804年に出版され、97小節で未完成、あとは空白の五線紙でした。1806年ブライトコプフの出版の際に最後の10小節が補筆され今の楽譜に至っています。

幻想曲とは最も自由で即興的な音楽です。哀愁を帯びた美しい主題は、悲しみに打ち沈みながらじっと涙をこらえているような音楽です。悩みと苦しみの中、自分の内面に向かって何かを問いかけているような芯の強さを感じます。悲しみに満ちた物憂げな2部が終わり、そっとニ長調に変わる瞬間があります。私はこの瞬間が好きでたまりません。地獄から天国に上げられる瞬間です。暗から明へのこの瞬間は、まるで長い長い冬が終わり、一瞬にして春が登場し、太陽が冷たい肌を温めてくれているかのようです。この喜びのために長い苦しみが存在したのかと思わされます。モーツァルト自身がこの幻想曲を完成させていたらどんな作品になっていたのだろうと知りたくてたまりません。

 

F. シューベルト(1797-1828):「グラーツの幻想曲」 ハ長調 D.605a

今年の5月のことです。ウィーンへ行った時に友人に「シューベルティアーデの城館、アッツェンブルッグ城って行ったことある?」と聞かれました。「聞いたこともないわぁ」と答えると早速、次の日、車で連れて行ってくれました。ウィーンから東へシューベルトが馬車でコトコトと通った美しい絵画のような並木道を1時間ほど車で走ったところに、1820年から数年間シューベルトが夏を過ごした城館がありました。シューベルトの友人で詩人のフランツ・フォン・ショーバーの叔父さんが中世に建てられたこの城館で所領地管理人をしていた縁により、夏になると沢山の芸術仲間がそこに集まりワインを片手に音楽、演劇、文学、芸術について夜通し語り合ったそうです。シューベルトの才能を評価し愛した友人や支援者たちが集まったサロンは「シューベルティアーデ」と呼ばれ、音楽家、詩人、画家、歌手等の芸術家がいました。シューベルトは仲間が書いた詩を歌曲にし、歌手のフォーグルがそれを初演し、そこではかけがいのない友情が生まれました。純粋なシューベルトは大衆の喝采には全く興味なくそれを求めようとしなかった人ですが、友人たちの喝采は彼にとって最高に嬉しいものであったそうです。シューベルトはその頃教えるのを辞めてひたすら自分の書きたい音楽を書いていました。出版社にはただでもシューベルトの作品は要らないと言われ、公演で稼ぐことも出来なかったシューベルトは非常に貧乏で食べる事に困っていました。そんなシューベルトに友人たちは真のボヘミアンの寛大さで寝る場所を与え、自分たちの食べ物を分け合って食べ、お金が入った人は五線紙を買ってシューベルトを支えました。純粋な魂を持ったシューベルトはまさに「さすらいの人」で、ただひたすら自分の信じる音楽を作曲し31歳で死んでいきました。

友人が連れて行ってくれた城館の裏には丘があり、そこには小さな作曲小屋がありました。シューベルトはその小さな可愛らしい小屋でAtzenbrugger Deutschenというドイツ舞曲などを作曲しています。シューベルトの繊細な魂の一部に触れた思いで感動し、ウィーンへ戻ってすぐに楽譜屋さんへ走りました。この頃に作曲された楽譜に目を通しているとふと「グラーツの幻想曲」という聴いたこともない曲と出会いました。オープニングの牧歌的なメロディーと透き通った和音に心が奪われ、これが弾きたいと直感が叫びました。この曲はハ長調(私が好きな純粋な調)で書かれていて、美しい和音とメロディーからはオーストリアの夕日を想像させられます。また哀愁を帯びたメロディーからはシューベルトの友人たち、マイヤーホーファーやショーバーたちの詩が聴こえてきます。

実はこの曲は1969年に発見された曲でつい最近まで演奏されずあまり知られていません。1962年にグラーツで亡くなったルドルフ・フォン・ヴァインス=オストボルンという音楽家の遺品から発見されました。シューベルトの死後、130年以上もの間、オストボルン家の地下の木箱に眠っていた作品です。1818年ごろに書かれていると推定されているこの「幻想曲」はタイトル通り自由に曲想が変化します。歌曲からポロネーズ風舞曲、ノクターン、即興曲などと様々なスタイルでシューベルトのファンタジーの世界を旅します。最後は再びオープニングの夕日のメロディーが聴こえてきて静かに扉が閉じられます。

 

フランツ・リスト (1811-1886): 超絶技巧練習曲 「夕べの調べ」

ウィーンに住んでいた頃よくハンガリーのブダペストまで足を運びました。中央駅から列車で3時間弱。ウィーンとは違って薄暗く重厚感が漂うブダペストには不思議な魅力があります。ブダ側の丘から見るドナウ川は華やかなウィーンで見るドナウ川とは違って重々しく、独特な雰囲気でノスタルジックな思いにさせてくれます。

フランツ・リストはウィーンから1時間ほど南に車で走ったライディングという小さな村で(当時ハンガリー)ハンガリー人を父にオーストリア人を母として生まれました。リストは生涯ハンガリー語を話すことがなかったにも関わらず、「私はハンガリー人である」というアイデンティティーを大切にしたそうです。神童、ピアノの魔術師、スーパースター、プレイボーイ、弟子を大切にする巨匠、聖職者。リストの性格、生き方は多彩で、その場その時に書かれた彼の音楽にその多面性が反映していると思います。

超絶技巧練習曲は1826年(15歳)に初稿が出版され、2度の改稿が行われた後、1851年に完成されています。シューマンが初版を見たときに言った言葉です。「それは、本物の嵐であり、驚愕の練習曲だ。この世で10人か12人の最高の演奏者の為にある練習曲である。下手くそな演奏家は、ただ笑いを誘うだけであろう。ほとんどにおいて、ヴァイオリンにおけるパガニーニのようであり、リストは新たにピアノの為にそう置き換えることを目論んでいる」

全て異なる調で書かれている12曲は、シューマンが言う通り驚愕の練習曲です。リストがどれだけのヴィルトゥオーゾだったか楽譜を見ればよく理解できます。「指が5本ついている手が二つあると思うな。身体から10本の指が生えていると思え!」と言っていたリストの演奏は人間業ではなかったに違いありません。ピアニストが集まるとよく「天国へ行ったら誰の演奏が聴きたいか?」という話題で盛り上がります。「リスト!」と即座に答える人が多いのですが、私はリストとクララ・シューマンの間で迷います。

「夕べの調べ」は美しい夕陽が壮大な大地に広がり、教会の鐘と共に鳴り響く情景を思い浮かべさせてくれます。何もないところに遠くから鐘の音が聴こえてきます。ハープが風の役割をしてくれ、夕方の空気を運んでくれます。中間部の内省的なレチェタティーヴォは感傷的でそこには強い祈りがあり、リストならではの和音の響きが存在します。それが終わると突然激しい嵐がクライマックスへと連れて行ってくれますが、最後は神秘的な静けさが戻り、夕陽が落ちた後、平和な夜を迎えます。

 

ロベルト・シューマン(1810-1856): 「謝肉祭」作品9

ロマン派を代表する作曲家、ロベルト・シューマンは1810年にドイツのツヴィッカウで生まれ、1856年、エンデニヒの精神病院で息を引き取りました。この「謝肉祭」は1834年に作曲されており、情熱に溢れたドイツロマン派の尖端をくぐり抜けている24歳のシューマンが残した作品です。

シューマンはこの「謝肉祭」が作曲された時期にピアノの師フリードリヒ・ヴィークの許に弟子入りして住み込んでいるエルネスティン・フォン・フリッケンに恋をしています。「謝肉祭」の副題は「4つの音による面白い情景」。実らなかった恋の相手エルネスティンの故郷ボヘミアの街、ASCHの綴りを音名に当てはめ作曲されています。(A-ラ、S-ミ♭、C-ド、H-シ) 又はAS-C-H (ラ♭-ド-シ)そしてこの文字はシューマン自身の名前の音名にも当てはまります。(SCHumAnn) 

文学青年であったシューマンは言葉遊びが大得意でした。この4つの音のコンビネーションが全ての21曲の中にダイヤモンドのように散らばっており、仮面をつけたこの4つの音符たちが次から次へと形を変えて踊ります。この謎解きの面白さは仮装舞踏会の仮面を一つ一つ取っていくようでここでもシューマンらしさが溢れています。

シューマンはずば抜けた文学的センスを持った人でした。この時期にドイツで流布していた音楽評論の水準に大きな不満を感じていたシューマンは、友人の音楽家たちを集め1834年に「新音楽時報」(Neue Zeitschrift für Musik)を創刊します。新しい芸術のために戦う仲間たちは「ダヴィッド同盟員」と呼ばれ「謝肉祭」の中に登場します。「ダヴィット同盟」とはシューマンの空想上の団体で、ダヴィットとは旧約聖書に登場するペリシテ人戦士ゴリアテを倒したダビデ王に由来します。当時流行っていた低俗な音楽や保守的な考えにしがみつく評論家たちに対して戦いを挑む、新しい理想の音楽を築き上げようとする団体です。21曲の仮面舞踏会の中にはいろんな人物が登場します。第13曲目の「エストレラ」は当時シューマンが恋をしていたエルネスティン・フォン・フリッケンのこと、第11曲目の「キアリーナ」とは彼の最大の愛、のちに結婚する当時16歳のクララ・シューマン、第12曲目は「ショパン」、第17曲目は「パガニーニ」など実際に存在したダヴィッド同盟のメンバーが登場します。第5曲目の「オイゼビウス」と第6曲目の「フロレスタン」はダヴィット同盟の架空の中心人物、シューマン自身を描いています。第2曲目の「ピエロ」、第3曲目の「アルルカン」、第15曲目の「パンタロンとコロンビーヌ」はイタリアの仮面即興劇の登場人物です。

さて、幕が開きます。シューマンの奥深い幻想の世界をお楽しみください。

  1. 「前口上 」 “Preambule” 

  オープニングは輝かしいファンファーレで始まります。堂々とした序曲からは舞踏会へ集まってくる人々の姿が伺えます。前奏部分ではシューベルトの「憧れのワルツ」のテーマが登場します。シューベルトを心から尊敬していたシューマンからの「シューベルトへのオマージュ」、そして愛する女性のために送る秘密のメッセージがこの数章節の中に込められています。

2. 「ピエロ」   "Pierrot"  

 たくさんの群衆が去った後に最初に登場するのが「ピエロ」です。イタリアの即興喜劇「コメディア・デラルテ」に登場する道化師は白いマスクをかぶった夢想家というイメージがあります。おどおどしたピエロがよたよた出てきて綱渡り(左手のベースのE♭が綱のように感じます)をしながら何度も転ぶユーモラスなピエロの姿が描かれています。

3. 「アルルカン」  "Arlequin" 

 アルルカンもコメディア・デラルテに登場するキャラクター。ピエロとは対照的で生き生きとしていて軽い身体で飛び上がって踊ります。ひし形の模様のついたカラフルな衣装を身につけたアルルカンはずる賢いですが人気者です。

4. 「高貴なワルツ」  "Valse noble" 

「高貴なワルツ」というタイトルはシューベルトの「12の高貴なワルツ」から来ています。ここでもシューベルトへの尊敬、友情の意味が込められていると思います。上品で堂々とした美しい伸びやかなメロディーで始まり、中間部ではメランコリックで繊細なメロディーが流れます。

5. 「オイゼビウス」  "Eusebius" 

私が最も愛して大切にしている曲です。オイゼビウスはダヴィット同盟のメインの団員でシューマンの分身です。静かな瞑想家、叙情的な性格で独り言を言いながら夢を見ています。オイゼビウスとフロレスタンはシューマン自身で「新音楽雑誌」でもペンネームとして使われています。この曲ではシューマンの心の奥底の最も繊細な部分に触れることができるような気がします。

6. 「フロレスタン」  “Florestan"

オイゼビウスと対照的なフロレスタンはとても激しく熱狂的、直感的で積極的です。感情のブレーキが効かないほど盛り上がり、最後はブラックアウトするまで走り続けるシューマン自身を描いています。この曲の途中にはシューマンの「蝶々」作品2が顔を覗かせます。「蝶々」はシューマンが愛した作家ジャン・パウルの「生意気盛り」という対照的な性格の双子を主人公とした物語からインスピレーションを受けているのでこの「蝶々」の登場はまるで種明かしをしているかのような不思議なメッセージです。

7. 「コケット」   “Coquette”

フロレスタンが記憶喪失した直後登場するのがコケットです。フランス語のコケットとは日本語で「媚態」で私にはピンとこない言葉ですが、男性をもて遊ぶ色っぽい女性のことを意味します。チャーミングで気まぐれな女性が気のある素振りを男性に見せ、振り向かせたかと思うとその瞬間すぐ無視をするという場面が想像できます。きっとシューマン自身にもそういう性格の部分があったのでしょう。

8.「 応答 」  "Replique"  

コケットの左手のメロディーが最初に登場します。女性と男性の会話です。短い会話の中で一瞬だけ一緒に歌います。まるでコケットが本当に好きな男性をついに見つけ会話をしているかのように聴こえます。

★ここで「スフィンクス」という題された4つの音、エルネスティンの故郷、ASCHの音型のコンビネーションが出てきますが通常演奏されません。

No.1 <Es-C-H-A> No.2 <As-C-H>    No.3 <A-Es-D-H> 「この4つの音が謎の鍵解きになるよ」とシューマンが言っているようです。

9. 「蝶々」  “Papillons”

「パピオン」蝶々はシューマンのお気に入りの言葉だったようで曲の題名にも手紙にもよく登場します。曲のキャラクターからして激しく、フロレスタン的なのでなんで蝶々?と思いますが希望に満ちた元気な蝶々のようです。

10.  「A.S.C.H.-S.C.H.A ~踊る文字」   "Lettres dansantes" 

スフィンクスに出てくる音型2がここからは主に使われています。小さな文字が宙に舞い軽やかに踊っています。あまりにも小さな文字が飛び散るのでよく耳をすまさないと理解できません。もしシューマンがScrabble(単語のボードゲーム)をしたら誰よりも強かっただろうなあと一人で想像しています。

11. 「キアリーナ」   "Chiarina" 

「謝肉祭」の中で一番情熱的な曲だと思います。キアリーナとはクララのイタリア風の呼び方でダビット同盟上での名前です。シューマンの音楽はクララなしでは語れません。クララはこの後、ロベルトとの結婚生活14年の間に子供を8人生み、天才ピアニストとして演奏旅行を続け、ロベルトの死後も演奏、作曲、教授、育児、シューマンの作品の校正をしながら家族を支え、超人的な働きを残した天才です。私が最も尊敬し、憧れている女性です。当時16歳でしたがもうすでに彼女の名は世に広まっていました。この曲がClaraのC Minor(ハ短調)で作曲されているところにも魅力を感じます。ロベルトがクララに最初に出会った時は彼女は11歳だったので妹のように可愛がっていたことでしょう。でもこの曲を聴くとこの時期からすでにクララへの感情が芽生えていたように思えます。

12. 「ショパン」   "Chopin" 

シューマンは1835年の秋にライプツィッヒでショパンに出会っています。「諸君、脱帽したまえ。天才だ!」と評論家としてショパンのことを絶賛し世間に紹介しました。この曲はショパンのノクターンのようで流れる左手に甘いメロディーが美しく歌います。

13. 「エストレア」   "Estrella"  

当時恋をしていたエルネスティン・フォン・フリッケンの同盟名です。彼女の故郷がASCHだったためこの「謝肉祭」が生まれました。この曲は非常に短く情熱的に書かれています。この二人の恋愛から「交響的練習曲」作品13も生まれています。彼女の存在はロベルトの制作意欲を掻き立てたことでしょう。真実かはわかりませんが、次の年にロベルトとクララの恋愛が始まるとエルネスティンは潔く身を引き、二人を励ましたそうです。

14. 「再会」   "Reconnaissance" 

仮面舞踏会での再会、「またお会いできましたね」と言いながら軽やかに連打が続く楽しい曲です。中間部ではメランコリーで美しい会話が展開します。まるで恋人同士が再会できたけれど別れないといけないようなセンティメンタルな場面が見えてくるようです。

15. 「パンタロンとコロンビーヌ」  "Pantalon et Colombine" 

パンタロンとコロンビーヌもピエロとアルルカンに続いてイタリア喜劇のコメディア・デラルテに登場する人物です。パンタロンは長ズボンを履いたケチで好色でお金持ちのヴェネチア人の老人でコロンビーヌは若い召使いです。言い寄ってくるパンタロンをコロンビーヌはタンバリンを打ちながら逃げまくっている様子が伺えます。

16. ドイツ風ワルツ  "Valse allemande"  

アルマンドは16世紀に流行した舞曲ですが、シューマンは「謝肉祭」のタイトルをすべてフランス語で書いており、彼が書く「ドイツ風ワルツ」というをフランス語の響きが私にはなんだか皮肉っぽく聞こえ面白く感じます。どこかで「ドイツ風」というフランス語のニュアンスに田舎っぽさを感じさせます。最近知って驚いたのですが、途中に出てくるメロディーはクララの作品4「ピアノのためのロマン的ワルツ集」から調を変えてそっくり取ったものです。

17. パガニーニ   "Paganini"  

ニコロ・パガニーニは当時のスーパースターであまりにものヴァイオリンの演奏の上手さに「彼は悪魔に魂を売り渡した代償として技術を手に入れた」と噂され、演奏会では十字架を切る者やパガニーニの足が地についているかを演奏中に確かめる者がたくさんいたと言われています。フランツ・リストはピアノのパガニーニを目指し、シューマンもパガニーニの超絶技巧を1830年にフランクフルトで聴いて自分も演奏家になると決意しますが、自分で発明した指の訓練機で指を痛めてしまいピアニストの道を諦めます。この曲では「ドイツ風ワルツ」の間奏曲としてきらびやかなジャンプが繰り広げられます。

18. 告白   "Aveu" 

最も短くてデリケートで切ない愛の告白です。内に秘められた情熱はまさにシューマンならではの世界です。

19. プロムナード   "Promenade" 

「散歩」ともよばれているプロムナードはそろそろお祭りが終わりかけている気配を感じさせます。会場を抜け出しカップルがフレッシュな空気を吸いに外へ出かけるような雰囲気を感じます。優雅なウィンナーワルツが最後の時を知らせてくれているようです。

20. 「休息」   "Pause"  

第1曲目の途中に登場する低音から高音に向けてのパッセージが突然やってきます。タイトルの「休息」など演奏者は全然できません。「急速」と変換したほうが合っているでしょう。ここでは息をする暇もなく終曲へと突入します。

 21.「ペリシテ人と戦うダヴィッド同盟の行進 」  "Marche des ‘Davidsbündler' contre les Philistins" 

フィナーレにふさわしい壮大な曲です。ここではシューマンが先頭に自分と共通した音楽観を持った友人たちと全員集合し行進します。ペリシテ人とは旧約聖書に登場するフェリスティンを意味し、ダヴィットは巨人ゴリアテを石投げで倒した弱小だけれど知恵を持つダヴィットを指し、シューマン自身と考えられます。ドイツ音楽を硬直される保守的な考えを持った俗物たちを駆逐しようとする勇ましい正義の行進が続きます。中間部では「17世紀の旋律」と書き込まれた左手に現れる主題が出てきますが、これは「おじいさんの踊り」という大衆歌曲です。「蝶々」、「子供のためのアルバム」にも使われているこのメロディーはペリシテ人の堅物ぶりを表現しています。そのペリシテ人を追い払うかのようにダヴィット同盟のメンバーたちが圧倒的な迫力で行進を続けます。最後は同盟の輝かしい勝利を高々と歌い上げ、皆で喜び合い、実に華やかに幕を閉じます。

2017年3月23日 Mozart Piano Concerto Kv.466

2017年3月23日 Mozart Piano Concerto Kv.466

2017年3月23日(木)19:00 尼崎市総合文化センターにてモーツァルトのピアノ協奏曲第20番を兵庫芸術文化センター管弦楽団と共演します。ベイコムサービスにご加入中の方、ベイコム提供エリアにお住いの方は2月22日までにこのリンクにお申し込みいただくと抽選で750組、1500名が招待されます。詳しくはリンクをご覧ください。又、Mikissimoメンバーの方はMikissimo事務局までお問い合わせください。

https://secure.bai.ne.jp/baycom/entry/1210/#_ga=1.96894619.509445468.1484306998

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2016年 「秋」プログラムノート 

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)

ピアノソナタ 第8番 「悲愴」作品13

音楽家にとってバッハの平均律クラヴィーア曲集が旧約聖書だとすると、ベートーヴェンの32曲のソナタは新約聖書だと例えられることがあります。それはベートーヴェンのソナタを通して演奏家は楽譜から何をどのように作曲家の意思として読み取るのか、そこでどう演奏すればいいのかというファンダメンタルな質問にぶつかるからだと思います。前期、中期、後期を通して書かれたソナタは音楽史にとって欠かせない道しるべです。

ベートーヴェンと聞くと私がよく思い出すのがジェイコブ・ラタイナーです。大学時代からの恩師で「歩くベートーヴェン」とあだ名をつけていました。1928年、キューバ生まれのピアニストで偉大なヴァイオリニストのハイフェッツやチェリストのピアティゴルスキーと室内楽を演奏したり、アーノルド・シェーンベルグの弟子でもありました。恐ろしく怖い頑固なおじいさんでレッスンの時はかなり緊張していました。まず小節数を大きく書きなおした楽譜(必ず原典版なのですが彼が気に入らないものだと投げつけられます)を彼の楽譜スタンドに置きます。その横に大きめな帳面を並べ、彼がゆっくり万年筆でレッスンの日付を書くのを待ちます。そのあと葉巻に完全に火がつくまで待ちます。ここが一番緊張するところです。プカプカされている時に弾きだすと怒ります。一息おいて彼の耳がこちらに向いた頃を見計らって目で確認してから弾き出します。

彼が一番大切にしていたものは「楽譜から何を読み取るか」です。同じスラー、アクセント、スフォルツァンドを一つとってもモーツァルトが書くものとベートーヴェンが書くものは違います。テンポとはスピードではなく、曲想だということ。彼のレッスンは初めから最後まで質問攻めでした。それは「自分で考えること」の蓄積で音楽家を本当の意味で育てるということに徹底されていたからです。最初にベートーヴェンのソナタを彼に弾いた時に聞かれました。「Miki、ベートーヴェンの32曲のソナタの中で彼は何回mf(メゾフォルテ)を書いたか」と聞かれました。「解りません」と答えると、「来週のレッスンまでに調べて来なさい」と言われました。家に帰って1番から32番まで楽譜をめくりました。なんと彼が書いたのはたった2度。驚きました。このmfというデュナーミクがいかにベートーヴェンにとって特別なものかを知りました。

ラタイナーはファクシミリ版、作曲家の自筆譜、初期の版などのコレクターで自分のライブラリーを持っていました。レッスンの後スコッチウイスキーを一緒に飲み、機嫌がいい時だけライブラリーのコレクションを見せてくれました。それが私の一番の楽しみでした。作曲家の思い、感情そのものが楽譜に現れていて興奮してドキドキしたのを覚えています。「いつか私はいなくなる。いなくなった時に自分の力で楽譜を読み取ることができるように道具を与えたい」と言われていました。

6年前のクリスマス前にニューヨークから連絡が入り、ラタイナーが昇天されたことを知りました。彼が私に与えてくれたものはあまりにも大きく、感謝をしてもしきれません。音楽を通して、楽譜を通してラタイナーは日々私に語りかけてくれています。

 

この「悲愴」のソナタはベートーヴェンが書いた「月光」と「熱情」を合わせて三大ソナタの一つとされています。「大ソナタ悲愴」というタイトルは珍しくベートーヴェン自身が付けました。28歳だったベートーヴェンはこのころから聴覚を失い始めていました。それは1802年に書かれた「ハイリゲンシュタットの遺書」に残されています。日ごと悪化する難聴への不安、悲しみ、絶望感の中で芸術家としての運命を全うするために肉体、精神的な病気を克服したいと願望するベートーヴェンの切実な思いが書かれていて涙なしでは読めません。ウィーンに住んでいた頃よくハイリゲンシュタットを散歩しました。遺書の書かれた家の近くの教会の鐘が聞こえなくなっているベートーヴェンの悲しみを考えました。音楽家にとって命の耳を奪われたのです。遺書の中にこのような言葉が残されています。「そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去って行くことはできないのだ」

「悲愴」のソナタはグラーヴェの重々しい序奏から始まり、緊張感のある激しい一楽章、牧歌的で心を温かく癒してくれる二楽章、小さな希望が見え明朗なテーマがロンド形式で登場する三楽章から成り立っています。

 

フランツ・ペーター・シューベルト(1797-1828)

即興曲 作品142-3

シューベルトはウィーンで生まれウィーンで亡くなった数少ない純粋なウィーンの作曲家です。常に死と孤独と向き合いながら31歳で亡くなるまで作曲に没頭した天才です。シューベルトが遺した作品は700点あまりでその多数が美しい歌曲です。素晴らしい歌があってこそシューベルトの世界を完全に味わうことができると思います。どの作品をとってもシューベルトにしかありえない個性が宿っていて私にとってシューベルトは地上と天を結んでくれる大切な作曲家です。

この即興曲は彼が亡くなる前の年に書かれています。変ロ長調の温かい優しい主題は、この即興曲を書く数年前に作曲した劇音楽、「キュプロスの女王ロザムンデ」から転用されています。5つの変奏曲はまるでウィーンの森の自然そのもので、そよ風や草木たちの会話が聴こえてきます。小さな野ばらと会話ができる純粋なシューベルトは偉大な大スターになりたかったのではありません。ただただひたすら音楽の中にいたかったのだと思います。

 

即興曲 作品90-3

この即興曲もシューベルトが亡くなる前の年、1827年に作曲されています。この頃の彼は、まるで人生の残りの時間を知っているかのように精力的に傑作を生み続けています。この即興曲は「無言歌」のようで「祈り」です。変ト長調という深く温かい調性で書かれていています。シューベルトが遺してくれた最高傑作です。

 

モーリス・ラヴェル(1875-1937)

「ソナチネ」

ラヴェルのソナチネは完璧にカットされたダイアモンドのようです。古典形式の中に簡潔にまとめられている中、美しい繊細な旋律が響き渡り見事な作品に仕上がっています。ソナチネは「水の戯れ」の数年後、1903年から1905年にかけて作曲され、ラヴェルの友人のゴデブスキ夫妻に献呈されました。小さなソナタ、ソナチネと題するところがまたラヴェルのお洒落なセンスが現れています。小節数の規定された音楽雑誌主催のコンクールのために作曲されたものなので小規模で完璧にまとめあげられたのだと思います。

一楽章:モデレ:

伝統的なソナタ形式の中に、優しいメランコリックな旋律が浮かび上がります。エオリア旋法で書かれており、なんとも美しい繊細な響きが印象的です。

二楽章:メヌエット

メヌエットはフランス語のmenu pas(小さなステップ)から由来していて、バロック時代にヨーロッパで流行したゆったりと踊る3拍子のダンスです。幼い頃このメヌエットを聴いた時に「何て物悲しげなメロディーなんだろう」と感じたことを思い出します。高貴でありながら純粋な旋律が美しい和音と共に流れていきます。

三楽章:アニメ

「生き生きと」と記された三楽章はトッカータ風に作曲されたロンド・ソナタです。16部音符の快活で鮮やかなパッセージが躍動します。フィナーレに相応しい花火が弾けるような鮮やかな曲です。

 

「水の戯れ」

「水の戯れ」は1901年、ラヴェルがパリ音楽院に通っていた頃に作曲されました。楽譜の冒頭には「親愛なるわが師、ガブリエル・フォーレに」と当時作曲の師に献呈されています。フランツ・リストの「エステ壮の噴水」からインスピレーションを受けたことは間違いありません。この曲はラヴェルの名前を初めて世に出した傑作で、今までロマン派にはなかった印象主義による最初の記念作品です。神秘的な和音をベースに噴水、水のさざめき、滝、波、雨、小川などありとあらゆる水が自由自在に表情を変え、光と共に表情を変えられていく様が聴こえます。楽譜にはアンリ・ド・レニエの詩「水の祭典」から引用した言葉が添えられています。「水にくすぐられて微笑む河の神・・・」

 

アルベルト・ヒナステラ (1916-1983) クレオール風舞曲の組曲 作品15

ヒナステラとはとても相性が合うようで、弾いていると昔からの友人に再会できたような心地のいい感覚があります。ヒナステラの音楽はとてもナチュラルに書かれています。10本の指を自然な形に使いこなし、ピアニスティックに書かれている曲が多いのですが、なによりも表現方法がとてもストレートで独特なリズムや旋律に惹かれます。

アルゼンチン生まれのヒナステラは、南米のバルトークとも呼ばれていて、幼い頃から民族音楽の中で育ち、民族主義に根ざした作品を残しました。全部で55曲の作品を残しましたが、それらは3期に分けられます。1937年-1947年までの10年間は「客観的民族主義」で、アルゼンチンの風景やそこに住む人々を音楽にしています。1947年からの10年間は「主観的民族主義」でアルゼンチンの題材は間接的、または抽象的に扱われています。1958年以降は「新表現主義」に入り、民族主義から離れ、十二音技法、セリエル音楽、無調の世界へと繋がっていきます。

今年はヒナステラの生誕100年を記念する年です。このクレオール風舞曲の組曲とは最近出会いました。「クレオール」とは植民地で生まれたネイティブ以外の人々を意味します。この曲は1946年ニューヨークで作曲されました。アルゼンチンを離れ、活気に溢れた大都市へ移り住み、強烈な影響を受けたに違いありません。この頃から彼の作曲法がよりパーソナルなものと変わっていきます。短い5曲の舞曲ですが、5曲ともすべてキャラクターが違いとても面白い作品となっています。夢心地で無重力な世界、リズム感に溢れた野生的なガウチョのダンス、ミステリアスで叙情的なメロディーなどが彼の音楽の特徴です。

 

ジョージ・ガーシュイン (1898-1937)

「3つのプレリュード」

このプレリュードが初めて披露されたのは1926年12月4日、ニューヨークのミッドタウンにあるルーズヴェルト・ホテルでのコンサートでした。友人のコントラルトの歌手から伴奏を頼まれ、彼女のリクエストでプレリュードが5曲作曲されました。その日演奏されたのは全曲でしたが、後にこの3曲だけが出版されました。

一曲目はこの時代に流行だったブラジルのバイヨンリズム(2拍子のシンコペーション)を使ったエキサイティングなプレリュード。2曲目は気だるいブルーズの子守唄。中間部に一瞬、男性が登場します。3曲目はアップテンポのラグタイム。fast-slow-fastで三曲ともとても魅力的な小曲です。

 

 

 

 

Tokyo Suntory Hall・Blue Rose

多くの方に支えられ演奏することができました。感謝の気持ちでいっぱいです!たくさんの美しい花束とプレゼントはCD135と共に無事に神戸へ戻ってきました。本当にありがとうございます!この日は両親の金婚式だったのでとても幸せな気持ちで1日を過ごせました。どんな時でも手をつないで元気で仲良くしてくれている両親に心から感謝です。

2016年「春」プログラムノート

皆さま、こんにちは!この春はとても華やかで美しいプログラムを演奏します!一部は私が大好きなシューマンとリスト。二部はいろいろな作曲家のワルツをテーマにした素敵なプログラムです。私にとって思い入れが深い作品ばかりです。皆さまの心にとまることができるように全身全霊を込めて演奏したいと思っています!

 

ロベルト・シューマン(1810-1856):「子供の情景」作品15

「子供の情景」は1838年に作曲されました。その年にシューマンは愛する未来の妻、クララに次のような手紙を残しています。「あなたは以前ぼくのことを、時々子供みたいなところがあると言いましたね。その言葉が僕の心に残っていて、羽をはやして飛び回り、いつの間にか30曲ほどの小さな曲ができあがりました。その中の12曲を選んで、「子供の情景」という題名をつけました」

実際にはこの手紙よりも一曲増えて13曲の小曲を集めた作品となりました。

シューマンは当時クララの事を「子供」と呼んでいました。彼にとって「子供」とは「世界で一番美しい言葉であって、私はある人のためにだけこの言葉を用いたい」と手紙にも残しています。なのでこの作品は子供のために書かれたのではなく、クララのためにプレゼントされた「子供の心を描いた大人のための回想」です。

私にとってこの「子供の情景」は宝物です。とてもシンプルで純粋な世界の中に、シューマンならではの繊細な幻想の世界が凝縮されています。

 

シューマン:リスト(1811-1886) 「献呈」

Du meine Seele, du mein Herz,        君は我が魂、我が心

Du meine Wonn', o du mein Schmerz,    君は我が喜び、おお、君は我が苦しみ

Du meine Welt, in der ich lebe,        君は我が世界、その中で私は生きる

Mein Himmel du, darein ich schwebe,    君は我が天国、その中で私は浮かぶ

O du mein Grab, in das hinab        君は我が墓、

Ich ewig meinen Kummer gab!        その下へ我が苦悩を永遠に葬った

 

Du bist die Ruh, du bist der Frieden,        君は憩いであり、君は安らぎである

Du bist vom Himmel mir beschieden.    君は天から私に与えられたもの

Daß du mich liebst, macht mich mir wert,    君が私を愛することによって私は価値あるものとされ

Dein Blick hat mich vor mir verklärt,        君に見つめられて 僕は輝く

Du hebst mich liebend über mich,        君の愛こそ我を高める

Mein guter Geist, mein bress'res Ich!   我が尊い魂よ、よりよい我が身よ

    -Frierich Rückert            ーフリードリッヒ・リュッケルト(訳・弓張美季)

 

30歳になるまではピアノ曲以外書かなかったシューマンが1840年に100曲以上の歌曲を作曲しています。ロベルトとクララは長年彼女の父(ロベルトの師匠でもある)、フリードリッヒ・ヴィークから猛烈に結婚を反対され苦しい時期が続きますが、やっと1840年9月12日に結ばれます。「歌の年」と呼ばれる1840年はシューマンにとって最高に幸せな年だったと思います。彼のクリエイティブ・パワー、才能が爆発した年でもあります。「詩人の恋」、「女の愛と生涯」、二つの「リーダークライス」、「ミルテの花」などシューマンの歌曲集の中でも最高傑作となるものをこの年に作曲しています。その中でトップを飾るのが「ミルテの花」であり、第一曲目に位置するのがこの「献呈」です。「君は我が魂、我が心」という熱烈な詩で始まるこの歌は結婚式の前夜にミルテの花を添えてクララに捧げられました。

フランツ・リストはこの美しい歌曲をピアノ独奏のために編曲しました。ピアノという楽器を知り尽くしたリストならではの華やかであるけれどとても深みのある名作です。

 

フランツ・リスト(1811-1886):「ペトラルカのソネット」第104番

ロマン派を代表するピアノの巨匠、フランツ・リストが存在しなければピアニストの人生は寂しいものになっていたと思います。リストが残したピアノ独奏曲を弾いていると彼がどんなに素晴らしいピアニストであったかよく解ります。リストと言えば超絶技巧を思い浮かべますがそれだけではなく、内容の深いもの、宗教的な意味を持つものから様々と幅広い音楽を残してくれています。ソネットとは13世紀の初め頃から始まったイタリアの詩の形式で14行詩ともいわれていて、ペトラルカとは実在していた修道士で、ペトラルカのソネットとはペトラルカの詩を意味します。この詩は恋に落ちた喜びと苦しみの2面を歌っています。

ある日、ペトラルカはラウラという美女に教会で出会い恋に落ちます。しかし、修道士は神にその一生を捧げる聖職者。異性を愛する事、結婚をすることは禁じられた身の上。ラウラへの燃えるような恋心と葛藤するペトラルカの姿がこの詩の中で歌われています。リストはちょうどこの曲が作曲された時期(1837年)、愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人とイタリアに滞在しています。リストはこのペトラルカの詩に強いインスピレーションを受け、恋の甘美と激しさが渦巻いたこの曲が誕生しました。

 

F.リスト(1811-1886):ウィーンの夜会「シューベルトのワルツ・カプリス」

「ピアノの魔術師」と呼ばれていたリストは数多くの編曲を残しました。このシューベルトによるワルツ・カプリスはシューベルトの舞曲から9曲、自由な形で残されています。この6曲目の作品は当時の華やかで優雅な貴族の舞踏会が描かれています。ドラマティックなオープニングに変わって甘い優美なワルツが続き、なぜか私の中ではシンデレラの頭の中の想像、舞踏会へのあこがれ、台所のネズミ達、夢が現実化された舞踏会などが頭によぎります。リストのシューベルトへの尊敬、情熱は生涯変わることがありませんでした。50年にもわたり編曲し、当時無名だったシューベルトの作品をコンサートホールへと持ち込みました。優れたピアニズム、彼の得意とした編曲ならではの作品です。

 

F.ショパン(1810-1849):ワルツ 第9番 「告別」 作品69-1 変イ長調

「別れのワルツ」として親しまれているこの曲は、1835年にショパンの第2の恋人、マリア・ヴォジンスカに捧げられた愛の告白です。ポーランドの貴族の娘で愛らしく、しとやかで高貴な雰囲気のマリアにショパンは一目惚れをします。1836年の夏にショパンはドイツのマリエンバートでヴォジンスキー一家と再会し、一夏を一緒に過ごします。愛するマリアと過ごしたこの一夏は、ショパンの人生にとって最も幸せな時だったと思います。ショパンは16歳だったマリアにプロポーズをし、彼女はそれを受け入れますが、彼女の両親がそれに反対し、結局彼らは結ばれることなく別れなければいけなくなります。ショパンは婚約破棄の手紙をマリアの両親から受け取り、あまりのショックに途方にくれ悲しみに陥ります。ショパンは彼女から送られてきた手紙の束の上に彼女から貰った一輪のバラの花を添え、「我が悲しみ」と書いて生涯大事に持ち歩きました。もしマリアがクララ・シューマンのような強い女性だったらきっと彼らは結ばれていたように思えます。

 

F.ショパン(1810-1849):ワルツ 第6番 「子犬のワルツ」作品64-1

「子犬のワルツ」の愛称でよく知られるこのワルツはショパンの晩年の作品です。ジョルジュ・サンドが飼っていた犬が自分のしっぽを追いかけてくるくると回っているところからこの曲が生まれたというエピソードが残っています。軽やかで活発な作品。中間部は打って変わり、ゆったりとした優美なメロディーにうっとりとさせられます。また滑らかでジグザグ的なメロディーの中にある美しいグラデーションのような響きが、ショパンならではの独特な世界を醸し出しています。この曲はショパンの音楽の良き理解者、友人として生涯彼を支えたデルフィナ・ポトツカ婦人に献呈されています。

 

E.ナザレー (1863-1943): ワルツ「エポニーナ」

「ブラジルのショパン」と言われているエルネスト・ジュリオ・ナザレーは生涯リオ・デ・ジャネイロで過ごしたブラジルの作曲家です。幼い頃からショパンを愛する母親からピアノを習い、民族音楽に目覚めました。ナザレーは「音楽は民衆に楽しまれるべきである」という観念を抱いている、心底ブラジルを愛した音楽家でした。ほとんど独学で劇場や映画館の伴奏ピアニストとして働き、小劇場では当時チェリストとして活躍していた後の大作曲家のヴィラ・ロボスがたくさんの影響をナザレーから受けています。彼の音楽の中にはサンバ、タンゴ、ショーロ、マシシェ、ルンドゥなど独特な民族舞曲のリズムが見事に盛り込まれています。当時ヨーロッパではサロン小曲にはフランス語で題名を付ける習慣が根強く残っていましたが、ナザレーは生涯母国語のポルトガル語に固執しました。エポニーナとはナザレーの弟子の友人の女性でした。ナザレーはこの美しい女性に密かに思いを寄せていたそうです。とても優しくて甘い香りのするワルツですが、どこかで寂しさを感じられる哀愁を帯びたところがブラジルのショパンと言われているナザレー独自の素晴らしい世界だと思います。

 

M.ラヴェル(1875-1937): 「ラ・ヴァルス」

私がラヴェルと出会ったのは15歳のころ、イギリスのメニューイン音楽院へ行っていたころです。最も尊敬するピアニスト、ヴラド・ペルルミュテールとの出会いがきっかけでした。ペルルミュテールはラヴェルの弟子でラヴェルが作曲したピアノ曲殆どを弾き、ラヴェル本人から楽譜には書かれていない細かい指示を教え込まれました。よくカフェでチェスをしながら指使いなどを教わったそうです。当時85歳だったペルルミュテールの音は、最も天国に近く、天から降ってくるような作曲家の語りであり、ピアノの音には聴こえませんでした。

ラヴェルは1919年に’ラ・ヴァルス’を作曲しました。この曲は、本来バレエ・リュスの主催者ディアギレフの依頼でオーケストラのために作曲され、ほぼ同時にピアノのために編曲されました。

踊りにくいという理由や経費の関係で舞台がキャンセルされ、別の管弦楽の演奏会で初演されて好評を博しましたが、バレエとして演奏されることは少なかったようです。

スコアには「渦巻く雲の切れ目からワルツを踊る人々が見える。雲は次第に晴れ、やがて豪華な広間で踊る人々がはっきりと見え、シャンデリアの光が輝く。1855年ごとのウィーン宮廷」と説明が書かれています。

冒頭のコントラバスの遠い不気味なオープニングから優雅で明るいウィンナーワルツに展開していきます。しかし華麗なワルツの中にいながらも低音部がいつも不安な感じで伴奏とメロディーが合っているかいないか解らない、不機嫌そうな金管や突然邪魔をするティンパニー、怪しいファゴットのメロディーなどが混雑します。

美しく幻想的とも言える曲ですがなんとなく不気味でワルツに酔いしれながら破滅に向かって行く、19世紀後半のオーストリア・ハンガリー帝国の破局の予感が暗示されているような気もします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ショパンのCDがレコード芸術特選版に選ばれました!

一昨日東京でのコンサートへ来てくださった方からショパンのCDが3月号のレコード芸術の特選版に選ばれたことを知りました。What a beautiful surprise! とっても嬉しいです〜!

ショパンは幼い頃から大好きな作曲家ですが ’ショパン弾き’ と自分では思ったこともなかったので少し恥ずかしいのと嬉しい気持ちでいっぱいです。濱田さんが書いてくださった「’心から出て、心へとつながる’ショパンの音楽の真髄を聴く思いがする」というお言葉には涙がこみあげてきました。これからも深くショパンを追求していきたいと思います。ありがとうございました!

My first Chopin Album!

皆さまこんにちわ!年末にショパンのCDが発売されました。生まれて初めてのショパンのCDです。幼い頃からショパンは大好きで身近な作曲家でした。好きな作曲家はと聞かれると迷わず「ショパンとモーツァルト!」と答えていました。9歳の時に初めて父から貰ったお小遣いで買った物がニキタ・マガロフのショパンのワルツ集でした。イタリア旅行の途中でカセットテープを買い、ローマからポンペイへ向かう途中にバスの運転手さんにテープを流して貰いました。その時の衝撃と感動は今でも忘れられません。こんな美しい音楽がこの世に存在するのかと外の景色を見ながら涙を流しました。このテープは伸びて壊れるまで聴きました。大きくなったらいつか全部このワルツを弾こうと心に決めました。今日こうしてショパンのCDをリリースできたことは私の幼い時の夢が叶ったようで本当に嬉しいことです。

ショパンのレコーディングは星の数ほどあるので色々なことで悩んだ事も事実です。日によって耳の聴こえ方、感じ方も違うので編集で何度も挫折してこれでは残せないと諦めた瞬間もたくさんありました。曲も18曲中、74分のCD一枚に収められるように13曲に減らし、曲順も調性やテンポのことなどを考え何度も変えました。レコーディングは演奏会と違って文章のように残るものなのでとても勇気が要ります。すべての音、解釈に対して100%の納得はいきませんがスポンテニアスさを殺さず、今私が残せるショパンを精一杯形にしたと感じています。もし聴いていただければ私にとってこれ以上の喜びはありません。

初めてのイタリア旅行

初めてのイタリア旅行

プログラムノート 2015年 リサイタル

「ペテルブルグの思い出」

 

3年近く住んだロシアでは色々な思い出があり、今でも思い出すと胸が熱くなります。初めてサンクトペテルブルクへ訪れた時の感動は一生忘れられません。広大なネヴァ川に立ち並ぶエルミタージュ宮殿の美しさ、街の中を流れる運河と美しい橋の数々、マリンスキー劇場で見た「白鳥の湖」、ロマノフ王朝の富と権力を感じさせられる宮殿の数々、幻想的な白夜、銃弾の跡が柱に残っている聖イサク大聖堂の展望台から聴いたラフマニノフ、道端でおばあちゃんが揚げてくれるピロシキの味、たくさんの感動が昨日の事のように蘇ってきます。

今回のプログラムはスクリャビン、ラフマニノフ、プロコフィエフ、ムゾルグスキーとすべてロシアの作曲家たちです。ピアノに向かっていると突然、ロシアにいた頃の感覚にタイムスリップする瞬間もありますが、また新しい発見が山ほどあり宝探しをしているところです。音楽の素晴らしさは同じものが二度と生まれないところだと思います。だからこそ音楽を通して毎日自分自身が生まれ変われます。

 

大切なことをたくさん教えてくれたロシアに熱い思いを込めて演奏したいと思っています。会場へ立ち寄ってくださるお一人お一人の心に留まるような演奏ができればと願っています。

アレクサンドル・スクリャービン(1872-1915)

 

「練習曲」作品2-1 嬰ハ短調

「24の前奏曲」より作品11-11 ロ長調

          作品11-12 嬰ト短調

          作品11-24 ニ長調

 

スクリャービンの音の世界はなんと神秘的で美しいのでしょう。スクリャービンの和音には人を魅了する魔力があり、一度入るとなかなか抜け出せない独特な世界が存在します。初めて10代半ばでスクリャービンのピアノ曲を弾いた時の感覚を未だに覚えています。聴いたことのない和音の響きとメロディーの美しさに驚き、感動で涙が溢れました。しかし当時の私には彼の音楽を理解すること、演奏する事がかなり困難だったので挑戦しても挫折の繰り返しでした。今日こうしてまたスクリャービンに向かえることに感謝します。

 

スクリャービンは幼いころから飛び抜けて才能があるピアニストでした。14歳の時にモスクワ音楽院へ特別の通学が認められ、ピアノ、作曲、音楽理論を学びます。即興演奏が得意だった少年が楽譜に音符を残していったのがちょうどこの時期です。小柄で虚弱、学業が優秀だったスクリャービンはかなり気難しく、扱いにくい性格であったらしく、周りの教授達を困らせました。同級生にはラフマニノフがいました。手の大きかったラフマニノフに対し、10度が届かない程の手の持ち主だったスクリャービンは、超絶技巧の難曲を同級生のヨゼフ・レヴィーンたちと競い合い、右手首を痛めてしまい、とうとう右手が使えなくなります。回復するまでの期間左手だけを特訓し、この時期には左手のための作品が次から次へと生まれます。また、メロディー、伴奏を左手だけで広い音域を駆け巡ることから「左手のコサック」と呼ばれるようになります。手が小さいスクリャービンがどうして弾きにくくてアクロバティックなピアノ書法を築き上げたのかが昔からとても不思議です。

 

スクリャービンの色彩への関心は異常でした。共感覚(「文字に色が見える」、「味に形を感じる」、「音に色が見える」、など)の持ち主だったので楽譜にも彼が見える音と色の照応が書かれていてとても興味深いものです。私も調性、和声、感情などを色にするのが好きなのでスクリャービンが見えていた色が近いものだと共感が持てて嬉しくなります。スクリャービンは音と光、音と色彩が神秘的に交感する音楽を作曲しました。そして誰よりも感情、官能を音楽に表現することに熟達しています。43年の短い人生の中で初期、中期、後期と目まぐるしく作風が変化していくのですが、後期になると彼独自の宗教感、宇宙感が強く音楽に反映されています。右手が上手く動かなくなり、絶望感に陥った時期から神秘主義の世界にのめり込みます。その思想とはこうです。「音楽とは単なる娯楽ではなく、世界の背後に存在する神の智恵の表れである。だからこれを使って人々を法悦の境地へ導き、神との合一を経験させ、通常の人間を超越した存在へと解脱させることができる・・・」こうした思想から生まれた作品からは、調性を超越した「神秘和音」があちこちに見る事ができ、なんとも神秘的な世界を繰り広げられています。

 

今日私が演奏するエチュードとプレリュードはスクリャービンが若かったモスクワ時代の作品です。「練習曲」と「前奏曲」と題名を見ただけでもショパンへの敬意と憧れが表れています。練習曲は彼が14歳の時の作品です。14歳にしてこれほどの深い悲しみを感じる作品が作曲されたことは驚きです。前奏曲は23歳の時に書かれています。11番はショパンを感じさせられる優美な曲想になっています。12番は左右の対話によるミステリアスな曲です。ここではスクリャービンの後期に登場する神秘和音を想像する事ができます。24番はリストからの影響が見られます。和音連打が続く英雄的な旋律が大きなクライマックスを迎えます。

 

今年はスクリャービンの没後100年を記念する年。この特別な年にスクリャービンと向き合えることに幸せを感じています。

 

 

セルゲイ・ラフマニノフ (1873~1943)

 

ラフマニノフは身長195センチの大男で手もグローブのように大きく、12度の和音がとどく“魔法の手”をもっていたと言われています。

前奏曲Op.23はロシアのはてしなく広がった大地の連想から生まれました。ラフマニノフは見事にロシアそのものー 寒く薄暗い冬の静けさ、春の大気、大地のうっとりとさせる花、ロシア正教会の鐘の響き、ロシアにしかない独特の情熱を彼の音楽の中で表しています。

 

「前奏曲」作品23 第4番

 

強さを秘めた深い祈りであり、バルカロールの性格をもっています。静かに落ち着いた水の上をゆっくりと鳥が舞うようです。

 

 

「前奏曲」 作品23 第5番

 

弾力のあるリズムが容赦のない激情を表し、近づいてくる軍隊の猛攻がわざとリズムを中断させ、鋭くアクセントをつけて響く. . . 。

中間部では最初の激しさを忘れたかのように美しい旋律のメロディーが抒情的にたゆたっています。そして再び遠くの方からはっきりとした、恐ろしい力を伴って、自分の意志に従わせようとするようなリズムが聞こえてきます。不吉を予言する響きは勝利の行進へと変わっていきます。

 

 

「前奏曲」作品23 第6番

 

やわらかな詩的な様相で魅了します。この曲では、すべてのパートが顔をだしており、左手と右手がどちらもメロディーのようであり、そして伴奏のようでもあります。しなやかにまとわりつくフィギュレーションは、変わりやすい自然の背景を作り出しています。

 

ある時友人のE.F.グネシナがラフマニノフにこう尋ねたことがありました。

「この前奏曲はとても明るくて、喜びに満ち、胸がわくわくするような曲ですが、きっととてもよい日にお作りになったのでしょうね?」それに対して、ラフ マニノフは「そうです、あなたのおっしゃる通りです。この曲は私の娘が生まれたその日にすぐ、すらすらとできた曲なのです。」と答えています。

 

「私はロシアの作曲家です。そして、祖国ロシアは私の性格と私のものの見方に影響を与えています。私の音楽、これは私の性格の所産です。ですから、これは、ロシアの音楽そのものなのです」  -  ラフマニノフ

 

 

「ヴォカリーズ」 コチシュ編曲

 

ラフマニノフの歌曲、「ヴォカリーズ」はロシア、また世界中で最も愛されている名曲です。原曲はソプラノ、またはテノールのために書かれている「14の歌曲集」作品34からの最後の歌です。泣けてくるような美しいメロディーはラフマニノフ生前から非常に人気が高く、様々な楽器に編曲されています。ゾルタン・コチシュ(1952年~)はハンガリーのピアニスト、指揮者、作曲家です。ラフマニノフには格別な思い入れを寄せているそうです。たくさんある「ヴォカリーズ」の編曲の中でとても好きな一曲です。

 

 

 

セルゲイ・プロコフィエフ(1891~1953)ピアノソナタ第3番 作品28 「古い手帳から」

 

20世紀ロシアを代表する作曲家プロコフィエフ。私は幼い頃からエキセントリックで乾いたユーモアとアイロニーでいっぱいのプロコフィエフの音楽が大好きです。独特な響きが印象的で、プロコフィエフは強烈に個性的な作曲家です。5歳から作曲を初め、9歳でオペラを完成させ家族内で披露、13歳でペテルブルグ音楽院の入試試験を受けた時は天才が来たと大騒ぎされたそうです。幼い少年が「4つのオペラ、2つのソナタ、交響曲と大量のピアノ曲」の楽譜をずしりと抱えて試験場にやってきたら誰でも驚くと思います。当時試験官長だったリムスキー・コルサコフは「これが、私が心から願っていた生徒だ」と叫んだそうです。

 

しかし音楽院は革新的なプロコフィエフにとってあまりにも保守的で失望を味わいます。「才能はあるが未熟」、「乾いた抒情とグロテスクで暴力的なモダニズム」と周りからバッシングを受けます。ロシア革命後、プロコフィエフは一旦祖国を離れ、アメリカやフランスで活動しますが、やがて祖国へ戻ってきます。当時のソ連政府は芸術家、音楽家から自由の創作を奪いました。当局の意図に合致した作品だけが求められ、プロコフィエフは苦しみを感じながら作曲を続けます。彼の音楽がアイロニックに聴こえるのはロシア政府への反発、そこから来るものだと思います。

 

ピアノソナタ3番と4番には「古い手帳から」と題されていて、10年前の草稿を元に改定されたものです。プロコフィエフによれば、「展開部と再現部を少し変更したが、構想は大きく変えず、ピアノにより適した洗練された技法を使用するものにした」と残しています。単一楽章でめまぐるしいピアニズムが楽しめる初期の作品です。とてもロシア的な第二主題が所々に形を変えて登場し、最後には速度を速めてクライマックスへと導かれます。

 

 

 

モデスト・ムゾルグスキー(1839~1881)「展覧会の絵」

 

「展覧会の絵」には私が3年近く住んでいたサンクトペテルブルクの思い出がたくさん詰まっています。当時アンティークショップで買った85鍵のロシア製のアップライトに向かい、この曲にのめり込んでいたのが昨日の事のように思えます。初めて自筆譜を見た時の感動は忘れられません。今まで聴いてきた「展覧会の絵」のイメージからかけ離れたものでした。まるで未知の世界に足を踏み入れたような感覚に陥りました。「展覧会の絵」はたった20日間で一気に書き上げられおり、この大作には多くのドラマが存在しています。ロシアから一歩も出た事のないムゾルグスキーが感じたパリ、ローマ、ポーランドなどの様々の風物の描写力とイマジネーションは驚異的です。しかしそこには想像を絶する苦しみを生き抜かざるおえなかった民衆の心、それを見続けてきたロシア正教会の鐘の音(心)が存在し、何よりもそれをムゾルグスキーは伝えたかったのではないかと思います。人々の苦しみとの共感、そこに深い感動を覚えます。

 

1873年に建築家であり画家でもあるヴィクトル・ガルトマン(1843~1873)が若くして急に亡くなります。親友として4年間付き合ってきたムゾルグスキーにとってこの出来事はあまりにも大きな衝撃でした。その翌年、ペテルブルグの美術学校で遺作展が開かれ、そこでガルトマンが残した数多くのスケッチやデザイン、設計図を目にした事が作品への動機となっています。ガルトマンは無名の建築家、画家でありましたが、公共図書館のデザインで金賞を獲得し、フランス、ポーランド、イタリアなどへ4年間旅をすることが許されました。生涯外国へ出ることがなかったムゾルグスキーにとって、親友のガルトマンが話したり見せるスケッチなどが重要な情報源だった事に違いありません。

 

ムゾルグスキーは高い理想を持ち続けて仕事に励んで生きてきましたが、彼の短い人生の後半はアルコール中毒に陥り、ほとんどの作品を完成させることができませんでした。「展覧会の絵」を書いた時期もアルコール依存症の狂気の症状が出ていましたが、それ以上に一気に書き上げるほどの創作意欲が湧き出ています。1874年6月に友人宛の手紙に残された手紙です。「私の中でボリス・ゴドノフを書いたときのようにガルトマンが生き返り、創作意欲を掻き立てられる。周りの空気が音と想いでいっぱいになり、ペンを置けない状態でいる。ここまではすべてうまくいっている」

 

「展覧会の絵」は間違いなく19世紀ロシアが生んだ最も独創的な傑作です。

 

 

プロムナード

オープニングは「ロシアのスタイルで」と書かれたプロムナードで始まります。ガルトマンの遺作展に足を運ぶムゾルグスキーの歩く様子が伺えます。このテーマはこれから始まる組曲のいろんな所で形を変えて登場します。絵から絵に移動する、または展覧会場の部屋から部屋へ移動する時の「歩み」です。

1 グノーム (地の精)

ロシアの伝説に登場する不気味なこびとの妖怪。森の奥に住んでいて奇妙な足取りで動き回ります。時々大嫌いな人間を脅かすために木の上から突然落ちてきたりします。森の地底の憂鬱な雰囲気の中で、人間が嘆く姿をグノームは心地よさそうに見ています。とても気味が悪いグロテスクな曲です。

2、古城

冒頭の優しくて美しいプロムナードが幻想的な中世のお城へ連れて行ってくれます。この曲だけ’Il vecchio castello‘とイタリア語のタイトルがついていて、6/8拍子のシチリアーノ風に書かれています。古城の前でトゥルバドール(吟遊詩人)が、片手にリュートを持ちながらバスバリトンの声で悲しげに歌います。恋がきっと終わったのでしょう。哀愁漂うメロディーはとても美しく、遠くの方で鐘の音(左手のバス)が最初から最後まで鳴っています。

3、テュイルリーの庭

重厚なプロムナードがパリへと導いてくれます。プロムナードの最後はまるで次の絵に目が止まり、立ち止まるかのように曲も止まります。

「遊んだ後の子供の喧嘩」と自筆譜に書いています。気持ちがいいお天気の日にたくさんの子供たちが公園で遊びまわっています。小さな子供たちの喧嘩をお母さんがなだめたり、子供がお母さんに甘える姿が伺えます。

4、 ビドロ (牛車)

この組曲の中で一番しんどい曲です。ポーランド語で「ビドロ」とは「牛の集団」のことですが、それよりも「家畜のごとく虐げられた(ポーランド)の人々」という意味があります。ポーランドの田舎、重たくて動かない車輪を牛と農民たちが動かそうとしている様子。圧制の下で苦難に満ちた生活に黙々と耐える農民たちの苦しみが伝わります。

 

実は「ビドロ」を描いたガルトマンの作品は発見されていません。ムゾルグスキーは友人のスタノフ(音楽評論家)に「僕と君の間では、サンドミールで描かれた「ビドロ」は牛車のことにしておこう」と書いた謎めいた手紙が残っています。自筆譜には最初に書いた題名をナイフで丁寧に削り取り、その上に「ビドロ」と書き直した痕があります。後で「ポーランドの反乱」というタイトルの鉛筆スケッチが発見されますが、最終的には出版の時に政治的配慮をして仕方なく「牛車」に置き換えたのだと思います。この曲の中にはムゾルグスキーの怒りと虐げられた人々への限りない共感が込められています。

5、卵の殻をつけたヒヨコの踊り

とても悲しげなプロムナードで始まり、次の作品へと移ります。プロムナードの最後にはふとヒヨコが生まれる瞬間が伺えます。

ガルトマンが「トイルビ」というバレエの舞台衣装のために書いたデッサンからインスピレーションを受け、このユーモラスで可愛らしい曲が生まれています。殻の中からヒヨコが足を出してピヨピヨと踊っています。

6、ザムエル・ゴルデンベルグとシュムイレ 

お金持ちのユダヤ人と貧乏なユダヤ人の2枚の絵から生まれた曲です。「太った男と痩せた男」とも書いてあります。裕福で傲慢なゴルデンベルグから始まり、貧しくて気弱なシュムイレがガタガタ震えながら何かを訴えようとしています。2枚の絵を一つの音楽にし、対話をさせているムゾルグスキーの発想に感動します。

ムゾルグスキーはユダヤ人ではないのにペテルブルグの墓地にある彼の墓石にはなんと「ダビデの星」が刻まれています。虐げられるユダヤ人への共感だと思います。当時帝国ロシアに住むユダヤ人にとっては受難の時代でした。「本当のロシア人の姿は心優しく、誰をも恨む訳ではなく、耐え抜く強い民族のはずだ、今の政治が間違っている」と訴えているかのようです。ムゾルグスキーの生き方そのものが、この組曲全体に反映しています。

7、リモージュの市場 (一大ニュース)

最初のプロムナードと同じオープニングで展覧会の後半が始まります。今回は展覧会場の建物から建物へと移動します。これから先は一度もプロムナードが曲としては登場しません。(曲のテーマとしては所々形を変えて登場します)舞台はパリから南へ400km下ったリモージュの市場です。「女達が喧嘩をしている。激昂して掴み掛からんばかりに」と自筆譜に書いています。朝早く活気の溢れた市場でいろんな会話が飛び散ります。一大ニュースとは、肉屋のおじちゃんが花屋のおばちゃんと浮気をしたのな、とかを想像します。最後は市場のみんなの会話が同時にテープの早送りのように飛び散って終わります。

フランス革命から解放されて生き生きと生活しているフランス人たちを見てガルトマンは何を感じたのでしょう。

8、カタコンベ (ローマ時代の墓)

ローマ時代に弾圧されたキリスト教徒の地下墓地にガルトマン自身がカンテラを持って登場する絵がテーマです。自筆譜には「亡くなったガルトマンの創造精神が私を頭蓋骨へと導いている。やがて頭蓋骨は静かに輝き始める・・・」と書いてあります。この曲はガルトマンへの鎮魂歌です。

次に「死せる言葉を似て死者と共に」と題した曲に繋がり、沈痛なメロディーが続きます。最後は頭蓋骨が静かに輝きながら、ガルトマンの魂が天へと登っていくような気がします。

9、鶏の足の上に建っている小屋 (バーバ・ヤガー)

バーバ・ヤガーはロシアのおとぎ話に登場する恐ろしい魔女で、人骨の柵に囲まれた鶏の足の上に建つ小屋に住んでいます。窓がないので煙突から出入りしているとロシアで聞きました。ロシアの子供達はバーバ・ヤガーが来るぞと脅されると急におとなしくなるそうです。人を食べるとも噂されるほど怖がられてる魔女です。中間部はバーバ・ヤガーの頭の中で考えている事だと思います。「フムフム、今度はどんな毒を入れてやろうか」とひらめきを感じながら毒を作っているかのようです。最後は喜びの悲鳴を上げながらほうきに乗ってロシアの森から街のほうまで飛んで行きます。

ガルトマンの原画は時計のデザイン画で鶏の二本足が台をふまえていて、その上にバーバ・ヤガーの小屋が建っています。

10、キエフの大門

ウクライナ(旧ロシア)の首都、キエフの大門の絵。ガルトマンが最高の評価を得た作品です。この門はロシア民族の誇り。ロシアの広大な大地にロシア正教会の鐘の音がクライマックスに向けて冷たい空気の中で鳴り響いていく様子は見事です。途中で現れるロシア正教の祈りと賛美は、亡くなった友人へ対しての永遠に滅びぬ友情の誓いに聴こえます。想像を絶する残酷な歴史を見てきた鐘の心が音となって壮大なフィナーレに向かって広がっていきます。

Happy New Year!

Prosit Neujahr! 明けましておめでとうございます!To all my lovely friends all over the world, may your new year filled with love, happiness, peace, joy and beautiful music!!

美季

プログラムノート

W.A.モーツァルト:ピアノソナタ8番 Kv.310 イ短調

1777年の秋、20才を過ぎたモーツァルトは母アンナ・マリアと共にザルツブルクを発ち、ミュンヘン、アウグスブルグ、マンハイムを通りパリへと向かいます。この旅の目的はスポンサーを探す事でしたが、そこでは大きな悲しみが待ち受けていました。パリではモーツァルトは全く歓迎されず、仕事がなくお金に困り、父レオポルドから届く逆上した手紙の数々に悩まされ、その上、母の死が若いモーツァルトに襲いかかります。

このソナタは1778年にパリで作曲されています。モーツァルトの18曲のピアノソナタの中で単調で書かれているものはこのKv.310とKv.457のみです。このイ短調ソナタは悲しみの中で孤独と戦うモーツァルトが残した悲劇的な作品です。

モーツァルトのほとんどの作品が長調で書かれている中、Kv.310のこのイ短調ソナタは「母の死」、「ドン・ジョヴァンニ」(ニ短調)は「父の死」、「レクイエム」(ニ短調)は「自分の死」として関連されています。

パリへたどり着く前、モーツァルトは当時音楽活動の中心であったマンハイムでオーケストラに関心を抱きます。その影響を受けたのか、このソナタはオーケストラのようにシンフォニックに書かれています。あともう一つモーツァルトへの関心を与えた出来事はアウグスブルグでクラヴィーア製作者のヨハン・アンドレアス・シュタインとの出逢いです。当時シュタイン製の最新式のハンマーフリューゲルのダンパーは膝で操作するものではなく、足で踏むペダルでした。試演したモーツァルトはきっと驚いたと思います。今までよりも強弱のダイナミックレンジが広がり、彼の作曲の可能性が広がりました。このソナタにもffとppが交互に表れます。ffとppはベートーベンが好んだデュナーミク(強弱法)ですがモーツァルトにとっては非常に珍しいものです。

モーツァルトは人生で二度パリへ訪れています。一度目の旅は幼い頃で父レオポルドへ連れられてパリへ行き「神童」としてもてはやされます。二度目の旅があまりにも悲惨で苦しかったのか、その後パリの土を踏むことはありませんでした。

シューマン:「森の情景」作品82

ドイツ人は散歩好きです。森はどの都市でも身近なものとしてあり、散歩は日常になっています。ドイツ人にとって森は生きていく中でなくてはならない存在です。ドイツ人の自然に対する考え方は彼らの生き方に反映されているように思います。昔からゲルマン民族は「森の民」と呼ばれていますが、彼らにとって森とは尊重に値するものであって、恐れをいだきながらも豊かな恵みを与えてくれる偉大な存在でもありました。森は自然そのものであり、人間がリスペクトを持って他の生き物と暮らす場所。自然を愛し、共存するということに対してドイツ人は特別な思いをもっているように思えます。

「森のロマン」はシューマンだけに限らず一般的なドイツ人も強い憧れを持っており、たくさんの芸術家達が森をテーマにした絵画、詩、音楽を残しています。

シューマンはこの「森の情景」を通して森の神秘さ、小さな命に対する愛情、狩人達の誇り、森の景観などを表現しています。

シューマンの作曲は作品1から作品23までがすべてピアノ独奏です。クララと結ばれる1840年、「歌の年」ではとりつかれたように歌の作曲に熱中します。その後41年は「交響曲の年」、42年は「室内楽の年」で1848年までの間ほとんどピアノ曲を作曲していません。そのシューマンが突然ふと生み出した作品が「森の情景」です。

シューマンは33才で持病の精神病が悪化していき、30半ばでは一旦作曲ができない状態に陥ります。数年経って小康状態を取り戻しますが、1847年5月に長男の死、11月には盟友メンデルスゾーンの死の影響で再び悪化し、自殺未遂への道へと彼の精神が追いやられます。

この「森の情景」は精神疾患に苦しむシューマンが一時的に見た幻想です。若くて元気な時期に見られるシューマンの幻想の世界とは少し違い、痛々しい繊細な印象を受けます。情熱に溢れたドイツロマン派の尖端をくぐり抜けているシューマンの姿ではなく、精神が枯れ果てた状態の中で、かすかに見える希望のような作品に感じられます。

1. Eintritt 「森の入り口」

ドイツの森へ馬車で入っていきます。主題は左手から右手へと一緒に分け合いながら進んでいきます。右手がコトコトと馬車の音を立てながら森に入るまでの風景が見られます。

2. Jäger auf der Lauer 「待ち伏せる狩人」

まだ朝が明けていない暗いうちに狩人が木陰で獲物を待っています。恐ろしい静けさの中で銃を標的に当てて息を止めています。その後にくるのが狩人達のファンファーレです。トランペットやホルンが森の中で響き渡ります。狩人達が馬に乗って森の中に入っていく姿も見られます。

3. Einsame Blumen 「寂しい花」

私がとても大切にしている一曲です。ハイネの詩の世界のようにシューマンは野原に咲く素朴な花たちと会話ができました。この世のものとは思えないほど美しく繊細に書かれています。いたわるように優しく、寂しい花に話しかけるシューマンがいます。

4. Verrufene Stelle 「気味の悪い場所」

この曲頭にはE.ヘッベルの詩がモットーとして付されています。

「花達は光の届かない森の中で高く伸びているが、ここでは死の如く青白い。その中で一輪だけ紅色が真ん中に立っている。それは太陽からきたものではなく、大地からのもの。・・・それは人の血を吸ったからなのだ。」 この曲は一瞬J.S.バッハかと思わされます。この曲は死と繋がっています。複付点音符がざわざわある中で不気味によろめく亡霊が立っているような世界なのですが、とても深みのある一曲です。

5. Freundliche Landschaft「懐かしい風景」

暗くて恐ろしい世界から抜け出して、全く別世界へ入ります。そこでは太陽は暖かく、微風が吹き渡り、生き生きと小さな生き物達が転がって遊んでいます。「懐かしい風景」というよりは「親しみやすい風景」です。

6. Herberge「宿屋」

狩人達が森の中で見つけた宿で、宿の主人と家族が狩りから戻って来た狩人達と一緒になってワイワイと狩りの話で盛り上がっています。この曲集は主題とするモティーフはないのですがこの曲だけなぜか5曲目の冒頭の16分音符モティーフが使われます。狩人が見た小さな動物の話でもしているのでしょうかね。

7. Vogel als Prophet 「予言の鳥」

シューマンの残したピアノ曲の中でも最も知られている一曲です。これほど奇妙な響きの曲はないでしょう。最初に聴いた時には驚きました。それはロマン派の音楽ではなく、未来を先取りした音楽への予言に聴こえたからです。夜、深い森の奥で「予言鳥」が(奇妙な不協和音のアルペジオの中で)鳴いています。そしてアルペジオ達の間には無音の森の静寂が存在しそこにシューマンの霊感が漂います。中間部には許しを請う人間的なコラールが教会の中で静かに鳴り響きます。

8. Jagdlied 「狩りの歌」

この曲集の中で最も健康的な曲です。メンデルスゾーンの無言歌の中の「狩りの歌」を思わすような活気に満ちた曲です。勇ましさを象徴する変ホ長調で書かれており、トランペットとホルンが和音連打しながらぐんぐんと前進していきます。それは狩人であることの誇りを象徴するかのように音楽が生き生きと彼らの喜びを表現しています。この曲がこの時期にシューマンの頭の中で響いていたことを嬉しく思わずにはいられません。

9. Abschied 「別れ」

死が必ず存在するのと同じく別れは必ず訪れます。別れがあるからこそ、今、生かされていることに感謝できる自分がいます。この音楽は辛い悲しい時でも諦めず前に向かって生きていく事の大切さを教えてくれます。シューマンの世界にしか存在しない美しい幻想の世界と現実に満ちた人間的な感情が見事に混ざり合って究極の世界を描いています。この曲集の最後の曲の最後のメロディーが解決されず天に登るところは見事です。

「森の情景」の9曲はシューマン自身が意識していたのかいないのかシンメトリカルに書かれています。1曲目の「森の入り口」と9曲目の「別れ」、2曲目の「待ち伏せる狩人」と8曲目の「狩りの歌」、3曲目の「寂しい花」と7曲目の「予言の鳥」、4曲目の「気味の悪い場所」と6曲目の「宿屋」、5曲目の「懐かしい風景」が軸となっていてそれぞれの曲に共通点が見られます。そしてすべて9曲が♭を使った音調で書かれています。それはいかにも「森」を意識した温かく深みのある音調ですべてを包み込んでいるように思います。

セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953) 「シンデレラ」作品102

私が3年近く通っていたロシア、サンクトペテルブルク音楽院の道を挟んだ向こう側にはマリンスキー劇場がありました。一昔前まで「キロフ劇場」と呼ばれていたマリンスキー劇場では「白鳥の湖」、「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」、「スペードの女王」、「ボリス・ゴドゥノフ」など数多くのバレエやオペラが初演されました。

いつも寒い練習室の窓から劇場を眺め、感動の思いに耽っていました。じっと劇場を見つめているとなんだか自分が時間を越えてその歴史的瞬間の中にいるような気持ちになるからです。それは音楽院の階段を登る瞬間でもありました。同じ階段をチャイコフスキー、プロコフィエフ、ショスタコヴィッチが登ったと思うだけで緊張と感動でワクワクしました。

私はロシアへ行ってからバレエのとりこになりました。迫力と技があるボリショイバレエも好きですが、チャイコフスキーの時代の振り付けを大切にしているキロフバレエの繊細な振り付けに高い芸術性を感じ、その魅力に惹かれました。週に何度もバレエを観に劇場に足を運びました。同じ「白鳥の湖」でも毎回新しい発見がありました。

この「シンデレラ」はプロコフィエフが作曲したバレエ音楽です。プロコフィエフ自身によって4つの管弦楽組曲と3つのピアノ独奏用組曲が作曲されており、踊りの要素に満たされたこの作品102は不思議とあまり演奏される機会がありません。

1.「シンデレラと王子のワルツ」Allegretto

深い森の中、遠くから見えてくる城をバックにオープニングが始まります。幕が上がりシンデレラの登場、意地悪なお姉さん達に継母、シンデレラのあこがれの王子の登場、不吉な時計の音、地下でドレスを作るねずみ達が登場します。

2.「シンデレラのヴァリエーション」 Allegro grazioso

シンデレラの日常生活。ほうきで床を掃除しながら退屈している彼女がいたり、ひとりぼっちで考え事をしていています。

3.「争い」Moderato-Allegro irato

意地悪なお姉さん2人と継母が主役で、服の取り合いなど喧嘩をしながら舞踏会に行く用意をしている様子が現れています。

4.ワルツ〜(舞踏会に急ぐシンデレラ)Allegro espressivo

とても暗いドロドロとしたロマンティックなハーモニーの中で大きくゆったりと踊られるワルツです。オーケストラでは様々な楽器が使われており、音程が外れた管楽器にハープとトライアングルといったような音が聴こえてきます。

5.ヴェイル・ダンス (パ・ド・シャ)Allegretto

パ・ド・シャとはバレエ用語の一つで、訳すと猫(シャ)のステップ。前後に足を揃えたポジションから片足で横方向へジャンプして、空中で両足が膝を曲げて出会った後、前後の足が入れ替わって着地した時には綺麗にまた足が揃っているステップです。とてもユニークな踊りから始まり、中間部からは少し力強い、ぶっきらぼうな鐘の音の連打と共にマーチ風で滑稽なダンスが続きます。

6.「愛をこめて」Moderato dolce-Andante

このバレエ曲のメインテーマです。最初にこの曲を聴いた時にプロコフィエフが書いた「ロミオとジュリエット」を想像させられました。若いジュリエットとロミオの

出会い、そして死。純粋で激しい愛。とても共通点があります。この最後に登場する曲は、美しい幻想的な曲です。祈りのようなコラール風なオープニングに続くシンデレラと王子のデュエット。お互いの愛が絡み合うようにして冷たい夜空の中に消え去っていきます。

アルベルト・ヒナステラ (1916-1983) ピアノソナタ 第一番 作品22

ヒナステラの音楽はとてもナチュラルに書かれていると思います。10本の指を見事に使いこなしてピアニスティックに書かれる曲が多いのですが、その事よりなによりも表現方法がとてもストレートで独特なリズムや旋律に惹かれます。アルゼンチン生まれのヒナステラは、南米のバルトークとも呼ばれていて、幼い頃から民族音楽の中で育ち、民族主義に根ざした作品を残しました。全部で55曲の作品を残しましたが、それらは3期に分けられます。1937年-1947年までの10年間は「客観的民族主義」で、アルゼンチンの風景やそこに住む人々を音楽にしています。1947年からの10年間は「主観的民族主義」で、アルゼンチンの題材は間接的、または抽象的に扱われています。1958年以降は「新表現主義」に入り、民族主義から離れ、十二音技法、セリエル音楽、無調の世界へと繋がっていきます。

このピアノソナタは1952年に作曲されています。古典的なソナタ形式で書かれているかと思えば第三楽章では十二音技法が使われています。とても興味深いヒナステラ独自の表現方法は、リズム感に溢れた和音の平行移動、 三度重音、クラスター、そしてなによりもマランボのリズム(アルゼンチンのカウボーイ、ガウチョが踊る野性的なダンス。6/8拍子)とギターの音が彼の音楽の特徴です。馬の足の動きを表した踊りであったり、 田園的な美しいメロディーなどとても多彩に作曲されています。

 

美季

トリスタンとイゾルデ

皆さんこんにちは!ウィーンは最近雨の日が続いています。

今日は先ほどワーグナーの最高傑作のオペラ「トリスタンとイゾルデ」のゲネプロから帰ってきました。午前11時から始まってオペラ座を出たのが午後4時。ワーグナーを聴くには相当な集中力と気合いが要ります。朝早く起きてまずヨガのクラスへ行ってサウナに入った後、スコアをしっかり見てオペラ座へ向かいました。ゲネプロは一般客が少なく関係者でいっぱいでした。誰も各座席の前の小さな台詞が出て来る画面を見ていない・・・流石。

私にとって「トリスタンとイゾルデ」ほど情熱的で胸が張りつめて息ができなくなる音楽はありません。序曲がなんて素晴らしい!この4時間にわたる3部オペラのすべてが実は序曲に詰まっています。

静かに幕が開き「愛と死」のテーマ。これでもか!これでもか!というほど完結しない不協和音が恐ろしく長いフレーズと共に続きます。聴いていて一幕目で頭がぼおっとしてきました。でも不思議とワーグナー・ワールドへ無理矢理弾き込まれて行き、最後にはあっと言う間に終わってしまったと思うぐらいです。

最後のイゾルデのアリア、ピアニッシモでトリスタンの死体の前で歌う愛のアリア。確実に彼女が昇天していくさまが聴こえる・・・ぞっとする瞬間です。涙が最後まで止まらなかったです。ウィーンフィルの美しい音、トリスタン役ーPeter Seiffertにイゾルデ役ーNina Stemme。最高のキャスティングでした。

ワーグナーのがトリスタンの作曲を試みたのが大作「ニーベルンゲンの指輪」4部作の途中でした。指輪の大作にお金がかかって仕方がないので小規模(!)の作品を作曲し売り込もうという思い立ちます。そこで絶好のパトロンが現れます。オットー・ヴェーゼンドンクという富豪です。彼はチューリッヒにある豪邸の離れをワーグナーに提供し、多額の援助をします。ところがなんとワーグナーはオットーの妻であるマティルデと恋愛関係に落ちいります。そこに別居していたワーグナーの妻ミンナがこの関係に気付き大騒ぎをします。このオットーという人はトリスタンに登場するマルケ王のように寛大で妻との関係を責め立てもせずなんと最後まで援助し続けます。

「自分は全人類のための至高の芸術を生み出すのであるから、他人は自分のために奉仕して当然である」と考えていたワーグナーほど自己中心的で非凡な作曲家はこの世にいません。ワーグナーはこの後も借金を重ね、自分で弟子でも支持者でもあった人の妻を略奪したり、バイエルンの国王、ルードウィッヒ2世にとてつもない資金援助をさせながら名作を残して行きます。とにかく驚く程のすごい人生です。神さまはそういうワーグナーの生き方でも彼の才能、運、インスピレーションを奪われませんでした。


今日ふと思い出したのですが、私がメニューイン・スクールを卒業した時に学校側から卒業生には一人一人好きなスコアがプレゼントされました。17才の私は何故か「トリスタンとイゾルデ」のスコアがほしい!とお願いし、頂きました。ベートーベンのピアノ協奏曲の全曲、モーツアルトのピアノソナタ全集などあるのになんて変わった子供だったのか・・・

やはり「究極なもの」が幼いころから好きだったのでしょう。

 美季

 

DRESS 2013

美季さんのリサイタルドレスは美季さんのお母さんの手作りってご存知ですか?毎年思考をこらしたドレスはたくさんのファンの目を楽しませてくれています。今年のドレスも決まりました。Let's sneak a peek!

管理人 

 

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